A Written Oath

湘南藤沢の開業税理士・マンション管理士・社会人大学生のブログです

A Written Oath

自分史

生まれる

私は、母の実家近くの茨城県勝田病院で生まれます。

その頃、両親は出会った東京に住んでおり、母は出産のため里帰りをしていました。

そして、産後落ち着いてすぐに母に抱かれて新幹線にて、父方の両親(私の祖父母)が住んでいた大阪に移動します。

(父は東京の引越し荷物を運ぶため、一人で大阪までトラックで走ったそうです。)

というわけで、その後の約30年間、大阪で育ちましたので、根っことしましては、おおむね関西人です。

 

 

幼児期

私の父方の祖父母は、生まれてすぐに引っ越した当時、大阪に住んでいました。

祖父は富山県出身だったのですが、町長選挙に敗れて、住んでいられなくなり、関西(兵庫県尼崎市辺り)に夜逃げ同然に出てくることとなったらしいのです。

(いい話ではないため、詳細はあまり教えてもらっていません:笑)

その後、祖父は仕事を転々とし、それでは生活を支えられないので、祖母がパートをしたり、最後はマージャン屋を開業したりして生活を支えていたらしく、父は祖母を苦労させた祖父のことを、一緒に生活はしていましたが、良くいうことはありませんでした。

 

父は祖父に対するアンチテーゼ的に、基本は生真面目一辺倒なのですが、音楽が好きで、お金がなくて大学に進学できない代わりに、高校卒業後に自衛隊の音楽隊に入りたいと、一時期、陸上自衛隊に入隊していたり、東京に出てから芸能人のマネージャー(いまは氷川ひろしがいる芸能プロダクションだったらしいです)をしたり、と結構好き勝手にやっています。

そして、東京で仕事をしていた際に母と出会い、結婚したそうなのですが、その当時「無職」で、母の両親から当然のごとく大反対に遭い、相当苦労した模様です。

(当たり前ですが:苦笑)

 

こういう環境下で、両親は、祖父母と私、この後生まれる妹との生活を支えるため、昼夜なく働いていました。

高卒であるため、父にはよい職がなく、ずっとタクシー運転手で昼夜すれ違いの生活をし、母は、私と妹を幼稚園に預けられるようになると、早朝は新聞配達をしながら、簿記の資格と字が達筆だったこと生かして、昼間は事務職として踏切や信号機、改札機を作っている会社で働き、夜帰ってから寝るまでは、夕食準備・片付け、育児(掃除・洗濯は祖母がやってくれていました)と、働きづめでした。

 

こういう環境であったことから、私と妹は、日中、幼稚園の送り迎えを祖父に、それ以外はおおむね祖母に面倒をみてもらっており、この状況は、私が小学校にあがるぐらいまで続きます。

 

 

小学校時代

小学校に上がる前に、人生2回目の引越しを経験しました。(ほぼ覚えていませんが:苦笑)

理由は、当時、ネズミが毎晩楽しく走り回る木造二階建ての長屋に住んでおり、長屋の大家さんに相続があったのかわかりませんが、借りていた長屋を売ってもらえることになり、隣家と一緒に建て替えを行うこととなったためです。

お隣さんが建築関連の仕事に携わっていたこともあり、S造3階建てを新築することとなり、建て替える間の仮住まい後、新しい家への引越しをして、転勤族の方ほどではないでしょうが、これですでに人生3回目の引越しをします。

 

家は新しくなりましたが、当然に両親はより一層忙しく働くようになり、祖父母は私にあまり興味がなかったらしく、独りで過ごすことが多くなっていました。

そんな環境であった上に、近所のいじめっ子に勝てず、あまり外にでることもしなくなったので、家にあった絵本、子供用の図鑑を始め両親の置いていた小説などを片っぱしから、読むようになります。

その後、漫画が面白くなり、暗いところでも必死になって本を読んでいたため、小学校2年生になるころには、すっかり眼鏡が必要になってしまい、またそれをきっかけにからかわれるようになり、ありがちな感じで、いじめられっ子が定着してしまいました。

 

またこの頃、父はタクシー運転手という仕事に見切りをつけ、勤務していたタクシー会社近くにあった閉店した喫茶店を買い取り、母も会社勤めを辞めて、両親で喫茶店経営に乗り出します。

母は自宅を抵当にいれることになることから最後まで反対していたようで、たまたま私の見えるところで一度だけ言い合っていたことを子供心に覚えています。

喫茶店経営は、タクシー運転手をターゲットにしていたことから、開業当初は、朝6時から開店し、お酒も少し置いていたことから、20時ぐらいまで開けていました。

もう、朝私が起きる時間には自宅におらず、帰ってくるのも寝た後となり、それこそ顔を見ることや食事を一緒に摂ることすらなくなってしまいました。

 

こういう環境が続いていたことから、趣味への逃避が一層激しくなります。

本好きから転じて、機械ものが好きになり、そこから当時はマイコン(パソコンの前身)に興味を持ち、小学校4年生あたりからは、すっかり今でいうパソコンおたくのようになり、中学にあがるぐらいまでの間は、BASICを中心に自分で作るゲームにはまっていました。

(このころにファミコンも販売されていたので「ドラクエ」とかもやってましたよ:笑)

 

そこで、1度目の転機が訪れます。

この頃の記憶が曖昧で時期が正確ではないかもしれないのですが、小学校5年生あたりに「ウィルス性髄膜炎」という病気にかかり、一ヶ月ほど入院しました。

そのきっかけは、風邪をひいて多少調子の悪かった私が夜中まで起きて母の帰宅を待ち、予防接種を嫌がったにもかかわらず、母は単に注射を嫌がっていると勘違いして無理に受けさせたことによるものです。

掛かりつけの小児科に連れて行かれた際に、総合病院へすぐに連れて行けと医者に怒られたことが母には堪えたらしく、入院時には仕事が忙しいにもかかわらず、見舞いほか行動としてけっこう気にかけてくれたことが印象に残っています。

 

それまで、苛められていることを報告しても、ただ「負けるな!」とハッパをかけるだけで、具体的な解決策を提示しない父や、忙しいことは仕方ないにしても、余るほどの長さだった長袖が7分丈ぐらいになってしまっていても気づかない母に、自分のことを気にかけてもらうことは、すっかり諦めてしまっていましたが、入院したことで気にかけてもらえている今しかないと考え、いじめられている自身の環境を変えてしまいたいと、急遽、中学受験をしたいとワガママと言いました。

 

当然、両親は寝耳に水で、私を学習塾(そろばん塾には行ってましたが)に行かせるとか夢にも考えていなかった様子でした。

ただ、私の必死の要求が届いたようで、中学受験を目標に塾に行かせてもらえるようになり、数校併願受験した結果、なんとか1校だけひっかかり、中高一貫教育の私立学校へ行くことができるようになります。

 

中学時代

この頃も相変わらず両親は仕事一辺倒でしたが、小学生時代の反省からか、週に一度くらいは顔を見せろと、このあたりから週末に予定がなければ、土・日のどちらはランチの忙しい時間帯だけ、店を手伝うようになりました。

このころの私は、もうすでに両親がいないことが前提になっていましたので、逆に「いまさら構われても」という可愛くない感じでひねくれていました。

 

その上、中学受験を一応くぐり抜けて環境を変えた私は、いじめられっ子小学生から、普通の中学生にジョブチェンジします。

友達もできるし、部活は、趣味全開にコンピュータ部とシミュレーションゲーム部を掛け持ちし、おまけに先生から頼まれて生徒会の会計までやっていました。

また、インドアだけでなく、週末は、小学校の頃から始めていたカブスカウトからボーイスカウト(小学校6年生から)に上がり、キャンプや募金活動などに出かけていました。初めての彼女ができたのもこの頃です。(ほぼ遊びと趣味全開ですね:苦笑)

 

遊びを充実させていた私とは別に、社会にはバブル期が訪れており、我が家にも地上げ屋がやってきていました。

その当時の家は、大阪市北区(当時は大淀区でのちに、大阪駅や梅田のある北区と合併します。)にあり、私が小学校高学年のころからたびたび交渉があったようなのですが、遂に売り渡すことになってしまいます。

そのため、いい転居先が見つかるまでという話で隣接市である守口市の分譲賃貸マンションへ人生5回目の引越しすることになりました。

 

当時の私は、遊びながらも漠然と、こんな社会は長く続くはずがないと感じていました。

これは私の読書趣味からこの時期、社会問題を扱うものや、社会風刺的な作風の海外SFをたくさん読んでいたことに起因していると思っています。

 

中学生となり、多少普通に遊べるようにはなりましたが、いじめに立ち向って乗り越えたわけではない私は、小学生時代の記憶を引きずっており、自己肯定感がとても弱い状態のままでした。

当然、他者との競争を勝ち抜ける自信もなく、どうしても戦わざるえないシチュエーションを避ける方向で人生を考え、また、中学受験した結果として、とても当時の受験戦争を勝ち抜いて、一定の成果を出すことができるとは、到底考えられませんでした。

このような流れから、私はこの中学生の後半あたりから、勉強して勝ち抜く方向ではなく、大学受験をしないで、高卒で就職する方向で将来設計を始めていました。

 

 

高校時代

高校にあがってもそのまま高卒で卒業する気のまま、卒業に必要な最低限の勉強以外はしないで、遊んでばかりいました。

 

この頃には、ボーイスカウトは辞めてしまっていましたが、高校にあがっても部活と生徒会は続けており、主に友達とゲーム(ゲーム機で遊ぶゲームではなく、サイコロを振って遊ぶ、TRPGやウォーシミュレーションゲーム、マルチゲームなどです。)で遊ぶ毎日を過ごします。

ただ、大学受験はするつもりがなかったので、就職先を検討するため、図書館などで、業界分析本(いまでいう業界地図)や四季報その他、企業分析・就職情報に関連する本を少しずつ読み進め、大阪で次のメーカー辺りでの工場勤務を候補として考えていました。

・日清食品

・ダイキン工業

おおむね私よりも上の年代である皆さんは、バルブ期のころの就職状況がお分かりだと思うのですが、高卒であっても、あまり人気のない工場勤務などであれば、一定の枠に滑り込めば、十分上場企業での勤務が狙える時代だったと思います。

 

この検討が終わって高校3年生になる辺りで、母が学校から呼び出しを受けました。

理由は、成績によるものです。

進級は一応できるが、このままだと卒業できないかもしれないと、母は学校から脅されました。

私は、卒業ぎりぎりを少し超える程度の成績で卒業する逆算をしていたため、危機感なんてサラサラなかったのですが、大学受験をするつもりがないことはカミングアウトせざるを得なくなります。

母は成績をなんとかして卒業することを条件に、それなりに納得してくれたと思うのですが、ここで父が立ちはだかりました。

口では一応、私の自由だとは言うのですが、事あるごとに嫌味を言ったり、愚痴っぽく当たってきたりする(本人にはあまり自覚がないらしいのですが)ようになってしまいます。

これは、父が高卒で苦労したこと、父自身が大学に行きたかったらしいことなどから、私を大学へ行かせる気だったためでした。

 

この歳で根回しもしっかりできる高校生ってどうよとも思いますが、この部分に思い至らず、対策を施していなかったことは、大きな失敗だったと感じています。

しかし、根回ししようにも週末のランチタイムに仕事しながら、顔をみせるのみで、ゆっくり話し合う機会なんて、まったくありません。

言いたいことは山のようにあったのですが、ただ、この時は不思議と父を責めたいとは思わず、むしろ両親からの承認欲求を満たしたいとの想いから大学に行くしかないかもしれないと、立ち向かうことに関して少し前向きに考えるようになっていました。

しかし、ここまで何の準備もしていなかったのですから、当然に行きたいと思うようなレベルの大学には行けません。

結局、一浪することとなり、その後であっても、勉強する習慣自体が身についていなかったため、ここからは勉強で苦労することとなりました。

 

浪人時代

大学受験することを決めたこと自体が遅すぎたこともあり、まったく勉強する習慣が身についておらず、またモチベーションも自ら決めたといってもある種の借り物状態で、一浪が確定した段階でも身が入っているとは言えない状況でした。

 

どういう流れだったかはっきり覚えていないのですが、高校卒業後、YMCAの予備校に通うこととなり、手探りで浪人生活を始めます。

しかし、身が入らないこと著しく、これでは一年浪人してもダメだと考えていたときに、予備校でアメリカへの短期留学の資料が配布されました。

 

以前ご紹介した通り、海外SF小説が好きだったことなどから、海外へ一度行きたいと考えていたこと、また、そもそも海外留学をするような意識が高い人たちはどのように考えているのかが知りたいと思っていたことから、親へ2度目の無理を頼むことにしました。

両親はこれも寝耳に水だったようですが、仕事とはいえ、いままで私がほったらかし同然だったことに色々思うところもあったらしく、この無理もなんとか聞き届けてくれて、8週間の短期ESL留学が決まり、アメリカのカルフォルニア州モントレーへ行きました。

 

このプログラムのよかったところは、YMCAのプログラムであったことから、海外各地からのESL留学生が一度に集まったことです。

ほぼ半数が日本人なのですが、覚えている範囲で、韓国、中国、台湾、タイ、オランダ、ドイツ、イタリア、アウジアラビアと世界各地からの留学生同士での交流をしながらの8週間は、大学留学するために英語を第二外国語として最低限使えるようになるというESLプログラム本来の目的以外に多くのものを与えてくれました。

 

あちらでの滞在は、公認会計士で海外赴任前の英語勉強に来られた方と、両親とスイスに住んでいて普段はフランス語とオランダ語を併用しているオランダ人との3人でハウスシェアであったほか、MBAを目指していた台湾人、人が日々亡くなることに何も感じなくなってしまうのが嫌だと看護婦をやめて留学にこられていた日本人女性の方などと交流を持つことができたことにより、ほんとに様々なことを知り、学ぶきっかけを体験として与えてくれました。

 

この留学を通じて学べたと感じているのは次の事項です。

 

1)知識をスキルに昇華させる勉強術の基礎

2)勉強するだけではなく、オフを確保し、ときにはしっかり遊ぶバランス感覚の必要性

3)いままで避けて通ってきてしまっていた、困難へ立ち向かうことの必要性

4)勉強をするための体力の必要性

5)新しいことを習慣化するためのスキルの必要性

 

この後、海外留学をしていませんが、上記を学ぶことができたことにより、浪人生としては物足りないながらも、いままでまったく習慣化できていなかった勉強に取り組むことができるようになり、とりあえず大学と名前のつくところへ入学することができました。

 

 

大学時代

MBAというものがあることを知ったことが影響し、経営学科を専攻します。

大学生になるときには、短期留学時の体験から、大学では次のことを目標としようと考えていました。

 

1)困難を乗り越えるには、まず体力が必要であることから、何らか身体を動かすことをすること

2)少なくとも何か一つはやり遂げ、自分自身に成功体験を身につけさせること

 

この目標を達成するため、クラブ活動の見学から始めたのですが、最初に見学した合気道同好会(あいうえお順紹介で一番最初だった)に捕まってしまい、自分と一緒に入った同期生を加えても7名しかいない同好会(2年後にクラブへ昇格)に、大学4年間ずっと在籍することになります。

 

理由は、当初の目的を果たすことができる意味も大きかったのですが、単純にやり始めて合気道の面白さにハマってしまったことと、剣道をやっていてかなり体力があった同期生に引きずられ、真夏に10km走ってから練習など猛烈に肉体改造されたことでした。

おかげで当時、ほんとに痩せすぎのひょろひょろ(身長180cmなのに体重56kg)になってしまいました。

 

その後、大学3回生までは合気道の練習にばかり出かけて、またもや講義受講は最低限と、また卒業が危ぶまれる結果となり、大学4回生のときは、単位取得のため、月曜日から土曜日まで講義受講に通う羽目になります。

当然、普通には卒業見込みを出してもらえなかったことから、ゼミの教授に一筆書いてもらうことになったのですが、卒業時に「卒業できるとは思っていなかった」と言われ、凹みました(苦笑)

 

ですが、やはり体力をつけたことは正解で、4回生1年間の講義漬け&並行しての卒論書きも、スムーズにこなすことができたことから、この4年間は、大学生としてはどうかとは思いますが、有意義なものだったと感じています。

 

 

就活

大学時代は、合気道ばかりやっていて成績は大変なことになっていましたが、ゼミの教授から何とか卒業見込みの一筆をいただき、就職活動に取り組みます。

 

この頃、高卒で就職しようとした時に検討したイメージから、できればメーカーに勤務したいとの想いが残っていました。

その想いはあれど、とりあえず大学と名前がつくだけの学校である上に、成績も卒業できるかわからない状況(4回生で半分以上の単位を取って卒業しましたが:笑)で、自分から行きたいと思えるような大手企業へは行けるはずもありません。

 

大学卒業年は1996年春です。

山一証券が破綻したのが199711月ですから、まだバルブが弾ける直前で、現在の厳しい就職環境とは異なり、高望みさえしなければ、卒業する大学並みの企業へは就職できた時代だったと思います。

しかし、社会(企業)の継続性には疑問をもっていました。

海外SFが好きだったことや、短期留学したことの影響もあり、政経でこそありませんでしたが、経営学科を専攻した結果、公務員や大企業ならとかもく、日本社会や企業のあり方では、一般の中小企業に勤めても、長くは続かないと考えていました。

そのような考えから、企業を頼む就職できないと思っていたのですが、別視点として、自営業者である両親の休みもなく働く姿も知っていたことから、まずはサラリーマンとして就職し、その上で手に職をつけることができるような職種に就きたいと考えました。(都合がよすぎですね:苦笑)

 

高校時代から就職を考えていたこともあり、職探しや業界検討については、長じている気になっていたので、次のような条件設定で就活をします。

1)企業規模は問わずメーカー

2)製造に関係する職種への就業であること

3)安定的な販売が可能な業界(公営企業や公営企業との接点のある業界)であること

4)大手企業以外だと福利厚生が充実していないことから、自宅からも通勤が可能であること

5)できれば、他社にない技術を有する企業であること

 

父から自宅近隣の製薬会社のMR営業(大変な仕事らしいですが、いまや給与も高いなど、父は喫茶店経営を成功させていますし、25年前から予測してましたから、「先見の明」は相当あるんですよね・・・)を勧められるなどの横槍もあったのですが、なんとか条件をおおむねクリアする小さな量水器メーカーに工場勤務希望で就職することができました。

その会社として、初の大卒採用とのことでしたが、当時大手企業以外では、まだ珍しかった組み込み型マイクロチップのプログラム技術をもっている企業であり、小学生時代からやっていたプログラミングの勉強から派生して機械語も独学である程度知っていましたので、その技術を学びたいと考えていました。

 

 

社会人になって

入社後1ヶ月ほどは研修ということで工場勤務にて量水器に関する基礎知識について学んだ後、組立作業と検定作業などに従事していました。

 

ここからは、自分史を少し脱線してマンション管理関連の豆知識です。

あまりマンション管理士として役に立つ知識とは言えないかもしれませんが、量水器を始め電気メーターなどは計量法という法律の規定に基づいて製作されており、特に料金の徴収にかかわるメーターは検定を受ける必要があり、工場内でおこなう検定をクリアさせてから出荷しています。

検定を受けたメーターには有効期限(満期)があり、各メーターには満期が記載されています。

それは、計量精度の問題などから、水道料金の徴収根拠となっているメーターは、計量法に基づく検定満期(量水メーター8年、電力量計10年等)ごとに取り替えることを義務づけられているためです。(交換しないまま請求した場合、その使用量に関して法律的根拠性のない請求となってしまいます)

 

電気力会社も黎明期には地方ごとにたくさんあったのですが、統廃合が進み現在の形となりました。

ご存知の通り公営水道は、地方自治体ごとと言っていいほど細分化されており、ある程度の幅はありつつも料金を始めシステムは統一されていません。

マンションなどの集合住宅に関して、水道事業を運営する公営水道企業体などによっては検針・料金徴収を各戸に行っておらず、1棟の建物として徴収し、個々への請求は管理組合などがそれぞれに行う形態を取っている場合があります。

 

料金徴収表どおりに個々から徴収すると、1棟として徴収した場合には、差益が生まれるように計算されています。

明文化されているわけではありませんが、その差益は、徴収者の負担となっている先ほどの量水器の交換や徴収業務の費用に充てることが期待されているものです。

したがって、水量使用料で差益が出ていても、それは純粋な収益ではないのです。

 

さて、ここからは私の話にもどりますが、工場研修終了後からは、電話応対などのビデオ上映などによる事務研修となり、その後は、先輩社員に同行して地方自治体の水道部局への訪問・納品、発注を受けた量水器の交換作業、地方自治体などから外注されていた水道料金の検針・業務の実地研修と、量水メーターに関わる業務について一通り研修を受けました。

 

そこから雲行きが怪しくなります。

これらの研修が終わった直後に営業研修ということで、地方自治体以外の配管財卸業者さんや、公認業者と呼ばれる水道設備業者さんなどへの訪問営業に、営業部長と同行することとなります。

教え方が親切だったのでおかしいと思っていたのですが、会社は、当初の約束を反故にして、営業なってくれと言い始めました。

 

その時は、会社からの要請に真っ向から逆らうと、約束を反故にしていると主張したとしても立場が悪くなりすぎると考え、「やってみないとわからないので、一度やってみます」と慎重に回答し、そこから営業部に配属となりました。

配属後すぐは、まだ自分の担当先があるわけではありませんので、公営関係と民間関係を半々に先輩営業マンにくっついていき、時には作業服で納品・交換工事(管工事の現場知識はこの頃実地で学びました)の作業をしていました。

しかし、会社もいつまでも成果のでない社員をかかえているわけにはいかないため、大阪市も集合住宅は申請がなければ、各戸徴収は賃貸であればオーナーが、分譲であれば、管理組合が行う形態をとっていたことから、空いた時間は、マンション管理員への飛び込み営業と設置メーターの検定満期の調査を指示されます。

 

入社後3ヶ月ぐらいで真夏でしたが、やるからには前向きにやろうと、住宅地図をコピーして、名称などから分譲マンションと想定されるものをピックアップしての、ローラー作戦を実施しました。

この経験には、私なりにいろいろなドラマがあったのですが本筋とは外れるので割愛します。

結果として、ボーイスカウトでの経験から長時間歩くことが苦ではなかったこと、合気道をやって基礎体力がついていたこと、そして、そもそも若かったことなどから、約2ヶ月強ぐらいで、大阪市内ほぼ全域の分譲マンションへの飛び込みと調査を完了させました。

おかげで、分譲マンションの管理員さんがどういう方なのか、賃貸マンションのオーナーさんと連絡を取るにはどのようにすればよいのか、管理会社はどのような対応をするのか、分譲マンションはどのような仕組みでなりたっているのか、バックマージンを要求してくる人にはどのように対処すればいいのかなど、外部業者から見た賃貸不動産会社・分譲マンション管理会社・管理組合の各組織がおぼろげながらもわかるようになったと思っています。

 

 

最初の転職を決意するまで 

飛び込み営業をやっていた頃に、私に目かけてくれていた先輩がいました。

バーボンが好きで、バーによく連れて行ってくれた先輩でした。

仕事上での直接の接点はほぼなかったのですが、いろんな話をしてくれたのをいまだに覚えています。

転職理由までは聴けませんでしたが、元はスポーツ用品関連のメーカーに在籍されていたことや、テニスでインターハイまで行かれて、大学の後輩にテニスを教えられていることをお伺いしたり、飲み仲間をご紹介頂いたりと、週に23回は一緒に飲みに行き、とても良いお付き合いをさせて頂きました。

 

営業という仕事は、面白いのかもしれないと社会に出て初めて感じさせてくれた方でした。

手に職をつけたいと思って社会にでた私にとって、新規開拓営業という仕事は、極めれば紛れもなく「手に職」と言えるものながら、自分自身に対して、なかなか自信の持てない私にとっては本当に苦手な職種でした。

やりたいと思えない仕事だったにもかかわらず、ほぼ一夏中、独りで黙々と飛び込み営業を続けられたのは、直接頑張れと言うわけでもなく、一緒に飲み行こうだけと誘ってくれる先輩のおかげに他ならなかったのですが、残念ながら先輩と喋れたのは、その夏限りでした。

 

本当に何の前触れもなく、突然だったのですが、金曜日に会社で別れた後、週末のテニス指導中に心臓麻痺で亡くなられたのです。

練習中に休憩すると言ってベンチに座られたあと、たち上がってこないため、呼びかけても返事がなく、不審に思った練習相手の方がしばらく経ってから呼吸していないことに気づき、救急車を呼んだという事情を伺いましたが、週明けに連絡を受けた周囲は、私を始め、当初は何が行ったのか、まったく認識できていませんでした。

 

お通夜には行きましたが、奥さんと生まれて間も無いお子さんもいらっしゃって、本当に言葉にならない集まりでした。

そもそも何を言っていいのか、言えるのか、どう言っていいのか、お通夜とお葬式と一連の手続きは進みますが、まったく現実感がありません。

一緒に住んでいた祖父が亡くなった時は、もう長らく入院もしていて、肺がんを患っていたことも知っていたので、ああ、その時が来たんだなと、ある種の諦観がありましたが、生まれて方、身の回りでこのような断絶を体験したことはありませんでした。

 

この時、私が痛烈に感じたことは、本当に人生はままならず、いつ終わるのかもわからないということでした。

私は、当然にいまの毎日が平凡に続くと漠然と考えていましたが、そうではない可能性を眼前に突きつけられたように感じていました。

そして、「いまのままで本当に良いのか?」ということを、この時ほど真剣に考えたことはなかったように思います。

 

話は変わりますが、私の実家は中学生ごろに地上げに会い、仮住まいに引っ越しています。

その後、大学2回生ごろだったと思うのですが、父は大阪市内で経営している喫茶店から歩ける距離で土地を見つけたと話し、そこにRC造の自宅兼アパートを建てるといいだしました。

結果、この家が現在の大阪の実家となり、人生6度目の引越しをします。

 

父は、大家として賃貸業を喫茶店と並行して始めます。

新築時は良かったもののと、テナントが入れ替わる度に下がる賃料の話などを聴くたびに、仲介業者に良いようにやられていると感じていました。

もちろん、私がやれば上手くいくなどと思っていたわけではなく、真摯にやれば伝わるかもしれない客商売と異なり、不動産仲介業者というプロに素人単独で対抗しつづけることは、容易なことではないと考えていました。

そして、いつかは長男である自分が継ぐかもしれないのに、何も知らないままでは、同じようにいいようにされてしまうとの危機感を勝手に持っていました。

 

社会には出たものの当初思っていたような手に職がつくような仕事には就けそうにはなく、営業の仕事の可能性を感じさせてくれた先輩も亡くなり、さらには、不動産を学びたいとの思いもできました。

ちょうどその時、飛び込み営業していた独立系の分譲マンション管理会社の設備営繕を担当されていた方から、転職のお誘いをいただきます。

私が何か特別な仕事をしたわけでもなかったのですが、なんとなく気に入ってもらえたようで、突然の申し出に、こちらから話題をふったわけでもないのにどうしてなんだろうと不思議に思っていました。

しかし、いま思えば、私自身のこのような思いの何がしかが、伝わっていたのかもしれません。

 

このように向こうから声がかかることには、何か縁があるに違いないと考え、転職を決意します。

会社に辞意を伝えると、営業部からだけではなく、研修時にお世話になった工場長から転属を会社に申し出るから思い留まれと、有難いお引き止めを頂きましたが、その時には私がやりたいと思っていたプログラミング関係の開発は、理学系の学校を卒業された社長親族の方が配属されていたりと、就職当初に話をしていたときとは大きく環境が変わってしまっていました。

むしろ、私がわがままを言い続ける方が会社に迷惑がかかると思っていたため、申し訳ないながらも辞意を固辞し、転職しました。

 

この後の経歴は、私のプロフィールを見ていただければと思いますので、「自分史」は以上となります。